4度目のムラク行きが決まるまで

                          川尻 耕治

私が初めてムラク島の土を踏んだのは、1990年の6月のことだ。それから19926月までの2年間、青年海外協力隊の野菜隊員として、島の人たちと生活した。それはもう言葉に言い表せないほど貴重な経験で、決して楽しいことばかりではなかったけれど、「いい思い出」として今も私の心の中にある。

そして199411月、島の人たちとの約束を果たす形で、新婚旅行でモルディブを訪れた。モルディブには10日間ほどいたのだが、ムラクへは僅か23日の訪問であった。妻には、私の原点とも言える場所を見せることが出来たし、「異文化と触れ合う」という濃い経験をしてくれたと思う。また、私の、島のみんなに紹介したい、自慢したい気持ちは満たされた。

その後、筆不精の私は、ムラクの人々と連絡を絶った。結婚して子どもも育ち、仕事もまずまず忙しい。いつまでも「協力隊経験」にとらわれていてはいけない。いわば過去への決別、という思いがあったのかも知れない。人に尋ねられれば答えるけれど、モルディブは過去のこと、「いい思い出」となっていた。

さて2003年、富山国際大学の非常勤講師になった。「国際ボランティアリーダーシップ論」という講座を教えることに。協力隊の富山県OB会長をしている立場で、しかも会社員ではなく自由な身。「教えること、人前で話すことが苦手」という致命的な欠点を除いては、手頃な人材だったのだろう。ここでは当然、協力隊の体験を語ることになる。それでも、それは思い出として語られるだけであった。

ところが2005年、NGO活動をしているモルディブOBの協力隊仲間から、「国際交流基金の助成金を申請するから、一緒に活動してみないか」との誘いを受けた。NGO団体の名前は、「対話プロジェクト」。映像を生業とする人たちが、戦時下のアフガニスタン、イラクに渡り、市井(しせい)の人々や学生の中に入り込んで、映像を使って日本の学生と対話する、という試みを実践してきた。媒体は主にインターネット回線のビデオチャットを使っていたようだ。

モルディブとの対話プロジェクトは、次のようにストーリーを定め、無事助成金が下りることになった。・・・地球温暖化による海面上昇で沈んでしまうかも知れないモルディブ。日本の学生が環境問題をモルディブの問題も絡めて学ぶ。そして「環境教育指導者」である私がモルディブに渡り、かの地の「環境教育を学ぶ若手リーダーたち」と会う。そして日本とモルディブの学生がビデオチャットを通して文化、学校生活、環境、様々なことを話し合う。その後若手リーダーを日本に招き、日本の進んでいる面、問題点をみてもらう。そこで見たこと感じたことをモルディブに持ち帰り、フィードバックしてもらう。更にお互い継続して環境のことを考えていく。

結果、対話プロジェクトは成功を収めた。200511月に私と石田さん、梅澤さんがモルディブに赴き、各方面の交渉に奔走、富山国際大学とERCEducation Research Center)の学生との対話が実現した。そして20063月にアリフ君が来日、様々な体験をして、それをモルディブに持ち帰った。

その時は主に首都マーレでの活動であったが、3日間だけ石田さんと共にムラクを訪れた。新婚旅行から11年、島は大きく変わっていた。一番感じた変化は、電気が24時間きていることである。私のいた頃は、夕方5時から9時までの4時間、豆電球程度の供給だった。しかも2年のうち1年半は島の発電機が壊れていて、石油ランプとローソクの生活だった。それが今は各家庭にテレビが入り、衛星放送も観られる。また、かつては多くの世帯で砂浜がトイレ代わりで、「男浜」「女浜」があったのだが、今はトイレの無い家はない。人々の意識も、気のせいか拝金主義になっているように思えた。そして私が暮らしていたころから14コ年を重ねたように、彼らも14コ年を取っていた。5歳だった子どもは逞しい青年になり、16歳だった女の子は優しい母親になっていた。

ムラクでは嬉しいことに、私たちを歓迎してくれた。実は、音信不通だった私が突然訪れても白い目で見られるのでは、という不安も少しあった。それは杞憂に終わった。皆口々に「今度は女房・子どもを連れて来いよ」と言ってくれた。「うん」と答えたものの、そんなこと無理だろうと思っていた。

しかし、そのチャンスはすぐにやってきた。富山国際大学では、毎年海外実習が行なわれている。自費参加ではあるが単位も取得出来て、西サモアやマレーシアで、ただの海外旅行とは一味違う体験をしているようだ。それが今年は、日頃何かとお世話になっている才田助教授から、対話プロジェクトで縁の出来たモルディブで行ないたい、それに引率として行ってくれないか、との提案があった。私の、子どもも連れて行きたい要望は、何の問題もなく受け入れられた。

やきもきしていた学生もどうにか集まり、妻も参加の意思を表明した。学生は、岡崎、開坂、寺田、勝島の4名だ。紅一点だった孫さんは、家庭の事情によりキャンセルとなった。何回かミーティングを重ね、持っていくもの、向こうでどういう交流をするかなどを話し合った。

私の4度目のムラク行きに至るまでの道筋は以上の通りである。もちろん、学生たちや私の家族は、それぞれの思いを持って参加したことだろう。動機やどんな思いで行くかは、人それぞれだ。だけど、行くなら精一杯色んなことを見てほしい、感じてほしいと思った。また、ムラクでなら、単なる観光では味わえない、得難い体験をしてくれるとの自信はあった。

そして8211350分、スリランカ航空UL461便は、学生4名、才田助教授、私、妻の香代子、小5の優太、小3の彩夏の9名を乗せて、成田空港からモルディブへと飛び立った。